裏通りに一軒の画廊がある。
その窓からは、落ち着いた色合いの照明と数点の絵と、
テーブルと椅子が見え、中には、ときどき和服など着てる女の人が
1人、いつも居る。
彼女は、非常に優雅で美しい人のように思えた。
もしかして、この画廊のオーナーなのだろうか。
前を通るたび、その人に対する関心は高まっていった。
が、私は絵にはもともと興味がない。
もっとも、過去に一度だけ、新聞紙面である絵を見て
ちょっとした感動を覚えたことがあった。
その絵は、少年達が河原で石投げをしてる絵だった。
石をもつ腕をぶらりとさげ、
まさにその石を投げんとしてる少年の目は
”永遠”とか”虚無”を、見ているようにおもわれた。
その時は、絵のタイトルとか画家の名前は覚えていたが、
いまでは、それらはすっかり記憶から消え、確かアメリカの絵画だったな、
くらいしか覚えていないのである。
その絵について、この画廊の人なら分かるかもしれない。
そのことを聞くために画廊に入っていっても、べつにおかしくはないだろう。
いつか機会をみて中に入って、あの人と話すのだ。
また、できることなら、もういちどあの絵を見て、
はたして感動がよみがえるのかどうか、私に絵がわかるのかどうか、
試してみたい。
そう心に誓っていた。
金曜日の夜。
街はいつもより賑わっていた。
仕事を終えた恋人達はカジュアルな服装に着替え、
楽しそうに手をつないで街を歩いていた。
私は、少しばかり人恋しくなっていた。
いつものバス停でバスを降り、裏通りを歩いたが、
画廊の前を素通りせず、立ち止まり、
意を決して、中に入ったのである。
”いつも、前を通るたびに不思議そうにこっちを見る男、
もうそろそろこの店に入ってくる頃かな。今日あたりこないかな。
あ、足音が聞こえた、止まった、こっちにくる、そうそうその調子
早くいらっしゃい、早く入って来なさい”
ドアを開くと鈴の音がした。
「失礼かと思いますが、実は・・・」
私は彼女に、新聞で見た絵の説明をし、もし知っているなら、
絵の名前を教えて頂けないだろうかとういうようなことを話した。
その人は私の話だけでピンときたみたいだった。
ちょっとお待ち下さいといって奥に消え、
世界名画全集のアメリカ版を抱えてきたのである。
そしてあらかじめ指を挟んでおいたページをめくると、
こういった。
「たぶんこの絵だと思いますけど・・・。いかがですか」
あ、確かにこの絵だ。
「あ、これです、この絵です、有り難うございます、
ずっと気になっていたんです。」
さらに絵を凝視した、4秒、5秒
が、
あのときの感動はよみがえらなかった。
少年の目にうつっている”永遠”とか”虚無”は、私には見えなかった。
私は少し落胆した。
「いや、
私はこの絵を見たかったわけではないようです。
実は貴女にお聞きしたいことがあるのです。
絵と女性とは、同じものなのでしょうか。
絵がわからないことは、女性がわからない、と同義でしょうか。
絵が好きだ、というのと同様に、貴女が好きだ、といっても、
いいものでしょうか?」
「ずーっと忘れずに好きなら、そういってもいいです。
うみさん。」
私はびっくりした。
何故私の名を知っているのだ。
一瞬であるが、この美しい女性が私の名前を知ってることに対して、
私は天にも昇るような幸福な心持ちになったのだ。
だが次の瞬間、地にたたきつけられた。
げっ!
思い出した。ようやく思い出した。
苦渋に満ちた記憶の底からゆらゆらと、ある女の顔が浮かび上がった。
彼女は、昔付き合っていて、私が不義理した人なのだ。
右手首にはカッターナイフの傷跡があるはずだ。
彼女はそれを私に見せた。私は顔を背けた。
「ようやく思い出したわね、うみさん。
私の顔すら、すっかり忘れていたのね。
いい絵は絶対、その感動もなにもかも、絶対わすれちゃ駄目なのよ。
あら、逃げるつもり」
私はへなへなと腰を抜かし、それでも必死に出口に這っていった。
がたがた震える手で、取っ手に手をかけた。
だが、ハンドルはカラカラと空回りするばかりだった。
戸は堅く閉められていた。
何度も体をぶつけたが、戸に付いた鈴がやかましく鳴るばかりで
以後決して開くことはなかったのである。
・・・
ありぢごくは蟻をとらへんとて
おとし穴の底にひそみかくれぬ
ありぢごくの貪婪(たんらん)の瞳(ひとみ)に
かげろふはちらりちらりと燃えてあさましや。
(萩原朔太郎 蟻地獄より抜粋)